2005年09月24日
「二度おいしい」#2
「す、すごいですね。この海老。ひょっとして伊勢海老ですか?」
「おう、そうだ。Yさんが伊豆の市場から直接贈ってきたんだろ」
「まだ生きてます?」
「いや、もう動いてねえな」
と、Sさん。
「早く食わねえと駄目になっちまうなあ」
「そうね」
と、Hさん夫婦。
「冷凍しますか?マスター寝てるみたいだし」
私はそう言うとSさんは腕組みをして考え込んだ。
「おう、Hよお。これを冷凍にするのはもったいねえなあ。一回凍らせると味が落ちるもんなあ」
「そうだなあ。大体Yさんが皆で食べろって言って送ってきたもんだろ。それを一つも手をつけずに凍らせたらマスター怒るだろ」
とHさん。
「そおねえ、Yに失礼だ!って怒って明日マスター捨てちゃうかもよ。この伊勢海老」
とH夫人。
(それはありえる…)
マスターの気性を理解していない人はまさか捨てるなんてことはないだろうと思うかもしれない。
しかし、マスターは極太の筋金が入った江戸っ子なのである。人からもらったものは誠意を持って受け取る。というのがマスターの信条である。凍らせて次の日に解凍して食べるくらいなら、送った人に失礼だ。捨てちまえ。という訳だ。たとえ、それがキャベツだろうが、辛子明太子であろうが、いせえびであろうが、である。
この辺の理屈は少し分かりにくいかもしれないが、昔の人はそういう気質であるらしい。
(この話の流れから行くと、もしかして…・)
私はひょっとしたらこの伊勢海老を食べることができるのでは、と心の内で期待した時、Hさんが言った。
「皆で食っちまうか」
(やったあああ)
私は心の中で万歳三唱をしたかったがぐっとこらえた。
「本当にいいんですか。さすがにそれは…」
「いいんだよ。だってマスターも忘れてたんだし、もう寝ちまったんだ。今ごろ大いびきだろ。ははは」
「そうだなあ、そうしよう」
Sさんももう乗り気である。
「そうね、ちょうど人数分ありますし」
S夫人も調子を合わせる。
「そうと決まれば話しは早い。おい、でかい寸胴さがしてこい」
Hさんは私に告げた。ちなみに「寸胴」とは今風に言えばパスタなんかを茹でる時に使う底の深い鍋のことである。
私は物置から一番大きい寸胴を引っ張り出した。
「ほんとは刺し身で食うのが一番なんだが、もう丸一日経ってるからなあ。しょうがねえけど一回ボイルした方がいいもんな」
「だなあ、ほんとにもったいねえ」
HさんとSさんはそんなことをいいつつも、てきぱきと支度を始めた。
伊勢海老は五匹丸ごと寸胴に入れられた。
ぐつぐつ煮立って来ると徐々に赤みを帯びてくる。
私はなにげなくHさんに尋ねた。
「あの、この伊勢海老一匹どれくらいするんですか?」
「そうさなあ…・一匹五千円はくだらないだろうなあ」
「え!本当ですか」
ということは寸胴の中には二万五千円相当の食材があることになる。しかも五千円というのはあくまで仕入れ値であってこれを店で食べたらとんでもない金額になってしまうことだろう。
「す、すごい…」
物の価値を金額で判断してしまうのは日本人の悪い癖であるが、しかしこの一匹五千円もするものはいったいどういう味がするのかますます食べるのが楽しみになった。
待つこと十五分、Hさんの「そろそろいいだろう」の一言を合図に伊勢海老は鍋から取り出された。見事な赤い色をしている。まな板に載せられ、伊勢海老は出刃包丁で真っ二つに割られた。
ご存知の方も多いだろうが、どんなに固い甲羅や皮を持つ動物でも体の中心に包丁を当てるといとも簡単に切ることが出来るのである。
さて、伊勢海老は大きい皿に一人につき一尾が並べられた。殻の中には見事なオレンジ色の、かに味噌ならぬえび味噌と純白のほこほこの身が詰まっていた。
「おいしそー」
「うまそー」
幸運な五人は口々に叫んだ。
各々ごくりと唾を飲み込んでから黙々と食べはじめた。
不思議なもので皆無言で伊勢海老をつついているのである。私も黙ってその味を堪能していた。
はっきりいって、想像の域を絶するほどのうまさであった。大袈裟ではない。ブラックタイガーなどとは比較するのが失礼なくらいうまいのである。
「お前は本当にエビなのか?」
と聞きたくなるくらいの味であった。
私はどちらかというと食べ物に関しては詳しい人間である。
そして私のうまいものに対する考え方はHPに掲載しているエッセイ「神戸、肉まん、腹一杯」の文末に書いたように、「おいしいものは金はなくとも足を運ぶ意欲と少しの時間があれば手に入るのである」というものであった。
しかし、この伊勢海老というい食べ物に関してはこの幸運がなければ一生出会うことがなかったかもしれない。
美味なものは世の中に山ほどあるが、私にとっての伊勢海老のようにたまたま幸運に恵まれなければ口にすることの出来ないものがあることを実感した。
飽食の時代と言われて久しいこの日本ではグルメブームがいまだ続き、テレビや雑誌で様々な食材に関するレポートなんかが取り上げられている。しかし、どうも私たちはその記事や番組を見ただけでその味を知っているような錯覚に陥ってしまっているような気がしてしまう。
だから私は「最近食べたものの中でおいしかったものは何ですか」と聞かれて、即座に答えることが出来る人は食べ物に対して真摯に向き合っている人であると思うし、答えられない人はなにげなく食生活を送っている人間なのかなと考えてしまう。
なにげない食生活を送っていた人間が、本当に美味なものに出会って「おいしいものとは何か?」ということを再確認するということを私に思い出させてくれた伊勢海老に心から感謝している。
これは店主が1998年に書いたものである
投稿者 tokito : 01:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月23日
「二度おいしい」#1
「二度おいしい」
おいしいとくればやはり食い物ネタである。
しかし今回ばかりはただの食い物ではない。
ゴージャスな食い物である。
それはなにか。
伊勢海老である。
[いせえび]
イセエビ科の甲殻類。海にすむ。体長約三〇センチで甲羅がかたく、ひげが長い。暗紫色または暗褐色で、煮ると赤紅色になる。肉は美味。しまえび。かまくらえび。・昔、伊勢湾で多くとれたのでこの名がある。長寿の象徴として古くから珍重され、めでたい時や、正月の飾りに使われる。
いちいち辞書から引用しなくとも周知のごとくあの高価な食材のことである。
よく料理の鉄人なんかで福井アナが、
「あーっと鉄人、どうやらここでいせえびを使うようですね。さあ、鉄人、この豪華な素材をいかにして仕上げるんでしょうか。蒸すんですかねえ、服部先生」
「いや、ここは生でしょう。やっぱりこういうものは生が一番いいんですよ。ああ、うまいんだろうなあ」
なんて言ってるくらいであるから、豪華極まりない食材であろう。
さて、この伊勢海老と貧乏学生<ときと>がなぜ結びつくのか、が問題である。
事の始まりは、わたしが古本屋とかけもちでバイトをしている焼き鳥屋が開店一周年を迎えることのなったことである。
この店は、私の家のすぐ近くにあり、マスターが趣味でやっている小さな屋台風の店である。私は、一年前突然出来たこの店に勇気を出して入った。
なにしろカウンターだけの小さな店なのでとても入りづらい。
しかし、軒先にぶらさがるあかちょうちんが私を勇気づけてくれ、一歩足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
「ど、どうも」
マスターはカウンター越しに私を観察している。
「お兄さん、学生さんかい」
「ええ、まあ」
「で、何にする」
私は普段であれば生ビールを頼むのだが、なにか雰囲気作りというか、アピールというか、格好つける意味で
「日本酒、あつかんで」
と言った。
「お、最近の若い衆にしちゃあ、粋なもん頼むじゃねえか」
マスターは江戸っ子なのだ。私はこの一言でそう悟った。
日本酒を飲み、一息ついたところでさっそく焼き鳥を頼んだ。
味は普通であったが、店の雰囲気がとても気に入りそれから1週間に1回くらいの割合で通うようになった。
マスターの知人や店の常連とも顔なじみになり、今年に入ってからは週一回店の仕事を手伝うことになり今ではラーメンも焼き鳥も一通り作っている。
そんな店もついに開店一周年を迎え、ささやかながらパーティが開かれることになった。
私は日中、古本屋のバイトがあったので、夜八時に終わってから遅れて店へ出向いた。
店の中を覗くと十人ほどの常連客やマスターの親戚などの姿が見え、皆一様に顔を赤くして大騒ぎの様相だった。一番若い私はいろんな人に挨拶をして回り、酒を注いだ。ところが、マスターの顔が見えない。
「あの、マスターは?」
「ああ、マスターなら昼間っからご機嫌でずーっと飲んでて、さっきまでここにいたんだけど今は隣で寝てるよ」
お祝いの言葉でもプレゼントしようかと思っていた私は拍子抜けしてしまった。
「お前さんも注いでばっかりじゃなくって飲みなよ」
「すいません。じゃ、頂きます」
それから二時間ほどわいわい騒いで、十一時近くになった。次の日が月曜ということもあって何人かの人が帰宅して店の中には私を含めて五人を残すのみとなった。私と常連のSさん夫婦。それからマスターの弟夫婦である。
なんとなく皆疲れた様子だったので私がそろそろお開きにしますか、と言った直後にマスターの弟Hさんが大声を出した。
「あ!いけね!忘れてた」
「え、なんですか。わすれものですか?」
「ちがうよ、ほら、おめえ知ってるだろ。伊豆のYさん」
「ああ、前一度店で会ったことがありますよ」
「あの人がよー、今日来れないって言うんで、代わりに届け物してくれてたんだよ」
「はあ、なんですか、届け物って」
「ちょっと待ってろ」
Sさんはそう言ってから店の裏口から妙に大きい発泡スチロールを持ってきた。
「なあにが入ってんだろ?多分、なま物じゃねえかな」
Sさんと私は二人で厳重に密閉してある発泡スチロールの箱を開けた。
中には見事な伊勢海老が五尾入っていた。
「おおおおおーーー」
店に残っていた五人は伊勢海老のあまりの見事さに溜め息交じりの歓声をを上げた。
これが店主が1998年に書いたものである