2005年06月01日

携帯電話ヒストリー 三菱 D504i

D503iを存分に使いこなしていたが、1年経過後でアンテナ部分が取れてしまった。
ポイントもたまったし、価格のこなれた504iシリーズを購入することにする。しかし、購入に当たっては非常に迷った。
ストレート型端末が無い!
ストレートっていちいちパカパカ開けなくていいし、さっと出れるしコンパクトだし、折りたたみに比べて絶対良いと思っていた。
当時まわりにはNとSOを持っている人がほとんどだった。
ついに妥協する日がやってきた。
だって、i-modeの高速化はすごい魅力だったのだ。
D504i.jpg

結局、全機種の後継、D504iに落ち着く。色も似た系統だったし。

全体的に丸っこくなってて、男らしさに欠けるボディだった、というかかなりギャル受けを狙っていて、壁紙とか、アイコンとか、まんまるかわいい路線。まあ角が無くて持ちやすかったのはよしとする。背面ディスプレイの円い形には少々辟易したが、表面の仕上げ方など高級感があった。
503iまで継承されていた、スクロールレバーがなくなっていたので、操作感に不安があったが、なんのことは無い。直感的で使いやすい。
音はさらに良くなっており、着メロの音が非常にクリアに聞こえた。

どこがすごいってわけではない地味な端末だったと思う。
それゆえ飽きがくるのも早かったのかもしれない。

投稿者 tokito : 19:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月31日

携帯電話ヒストリー 三菱 D503i

相当お気に入りだったNM502iを乗りかえることになった決定的な理由はαアプリサービスの登場だ。
特に503iシリーズの販促は気合が入っており、製品もかなり優秀で特徴的なものが揃っていた。
選ぶ上で相当に迷ったが、知人が歴代Dシリーズを使っており、操作性が良いと聞かされていた。また当時までずっとストレートタイプを使っていたので、折りたたみ携帯には少々抵抗があったのだ。
D503iに決め、発売後すぐに手に入れたかったのだが、いかんせん価格が高く手が出なかったので、半年経過後5000円で購入した。色はブルーだった。
D503i.jpg

使用してみたところ、非常に操作性が良く快適の一言。特に中央のスクロールキーの使い勝手が抜群だった。
デザインはややぼってりした感じは否めないが、思ったより厚みが無くポケットにすっぽり入った。
画面は見やすく、音もよい。
しかしながらストレート型であったため503iシリーズではNとSに人気が集中し、意外と持っている人が少なかった。

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2005年05月30日

携帯電話ヒストリー NOKIA NM502i

J-PHONEから乗り換えたのが王者ドコモ
乗り換えた理由は「NOKIAの端末があるから!」ということ。
で、購入したのがNM502iのブルー。
NM502i.jpg


激しくかっこよい。
まず手のひらになじむデザイン、つや消しのブルー。
軽量、コンパクト。
独特のボタンデザイン、配置。
液晶の両サイドに表示される音量と電波インジゲーター。
そしてなんといってもスライド式のフリップ。
受話の際、カシャッとスライドさせると通話開始、閉じると通話終了。
このギミックがたまらない。

友達に自慢しまくった思い出がある。
数年後、ハワイでレンタル携帯を使うことになるのだけど、当時からやっぱりノキアのデザイン、コンセプトは日本には無い洗練されたものだった。

このブルーをトイレに落としてしまい、水没で再度新規購入(泣)
しかも色がシャンパンゴールドしかなく、がっくり肩を落としたことがあった。

結局、1年半ほど使ったのだけど、iモードが発達する中、モノクロと解像度の小ささ、メール作成の煩雑さから結局機種変更してしまった。
その際を本体をドコモショップに回収されてしまったけど、今ではなんであのときに手元においておかなかったのか公開している。

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2005年05月29日

携帯電話ヒストリー

仕事が急に忙しくなってしまって、ブログ更新できず。
過去の隙間を埋めるため、とりあえず今までに使った携帯をあげていこうと思う。

僕が初めて携帯を持ったのは確かPHSのサービスが始まった頃。
ASTELの機種だったと思う。
そのあと料金滞納で解約(!)
DDIポケットに乗り換え
その後に当時まだ高かったけどJPHONEにした。
最終的にはドコモに落ち着き、以来ドコモユーザーだ。

で、まずは最初に手にした携帯、JPHONEの端末について書いてみる。
jpe01.jpg

パイオニアの「全面液晶携帯」JPEシリーズというのがあって、メカオタクな僕はその斬新さに無性に欲しくなった。
初代のPEは真四角で、カンペン(フデバコ)みたいな感じでごつい。首からネックストラップでぶら下げると首が痛くなるくらいドッシリ。
しかし、そんな道具としての使いやすさはおいておいても、ボタンからなにからなにまで全て液晶にしてしまった(ソフトウエアで解決してしまった)ことに感動を覚えたのだった。

燦然と輝く液晶部分が眩しい。
メニュー周りも優秀で、とくに電話帳の検索がしやすかった。
ただ、J-Phoneのメールが当時非常にショボかったため、ソフトキーでの入力や閲覧のしやすさなどを発揮することが出来なかった。

スケジュール管理などPIM関係も今ひとつ。
結局見栄えだけ・・・ということになるのだけど、その見栄えだけで十分所有欲を満たす逸品だったと思う。

このJPE01の後継機JPE02が出てこれも購入した。
jpe02.jpg

大きな変更は無いが、ジョグダイアルがついて操作がしやすくなったことと前モデルでの使い勝手などの修正が行われている。
重さ大きさも一回りダウンサイズされており使いやすくなった。

しかし、J-Phoneのキャリア自体のサービスに納得がいかず、結局1年ほどで使用しなくなってしまった。

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2005年05月08日

アポロは本当に月に行ったのか?

イメージ 1.jpg

いや、行ってるんです。間違いなく・・・。

こんなトンデモ本が発売されたり、テレ朝で数年前にバラエティで取り上げられたりと一時期話題になった。
で、こんな捏造派ページがあるかと思いきや即座にここで反論されバッサリ切られる。
宇宙航空研究開発機構 (JAXA) のページにも丁寧に解説される始末。

上記を見れば「月に行った」ことは間違いないのだけども、じゃあ何故こんなことが公の電波に乗って、出版されてしまったのだろうか。
僕たちは「アポロが月に行ったこと」を当たり前のように信じている。
でもいざ「月に行っていない」と面と向かって言われると、その当たり前と信じていることに「根拠」を求めようとする。
だけど地球外という当事者以外に誰も観測が出来ないところでおこった事実を知るためには、その当事者(NASA)が提供するメディアを介さなければならない。そのNASAが嘘の情報を流していたとしたら・・

アポロ計画についてもっと詳しく知りたい人は
アポロマニアックス

でも、行ったかどうかは別にして、疑ってかかる人に言いたいことは
月に行くことがどれだけ大変なことであるかを知ってもらいたいということ。

今ね地球の周りを国際宇宙ステーション(ISS)ってのが90分に1周してるんです。

ただ人工衛星に人が乗っているだけかもしれない。
たった地上400キロの高さかもしれない。

けれど、その軌道に乗せるのにどれだけの研究があったのか。
スペースデブリ(宇宙ゴミ)が漂う中、時速27000キロで後悔することにどれだけの恐怖があったのか。
がクルーが家族を地上に残してどういう気持ちで危険を冒したのか。だから今から40年近く昔に月へ航海し着陸することがどれだけ危険なミッションだったか。
成功のとき人類は心から感動したのだろうと思う。

野口宇宙飛行士のミッションが2ヶ月延期になりました。(現在は7月を予定)
スペースシャトルが打ち上げに失敗して以来のミッション。
無事にミッションが成功し日本中が感動する瞬間を楽しみにしている。

投稿者 tokito : 01:27 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月05日

Rahmens「ラーメンズ」

ちょっと変わった単語、これ何かというとお笑いタレントのコンビ名。
こいつらがすごいの。
いつぞやか、ネットサーフィンしてたらこのコンビの「日本語学校アフリカ編」という動画ファイルを見っけた。
なんだろうと思って見てみると大爆笑。
ググったらフラッシュ版発見。


その後DVDを借りまくりほぼ全部見た。

このラーメンズというコンビ。
歳は僕のひとつ上。芸大出身の異色なお笑いタレント。
デビュー時期は良く分からないが、第一回ライブが1998年。
NHKの爆笑オンエアバトルにもしばしば登場していたようだ。

各々はこんな感じ

小林健太郎
舞台の脚本は全てこの人が書いている。
相当頭がキレる。
ひとつのギャグが全体の話の複線になっていたり、設定自体が異色で面白い。演技はどちらかというとタメやセリフで笑わせるタイプ。

片桐仁
野獣カタギリというのが僕の印象。
身体全体で表現するネタは抱腹絶倒モノ。

とりあえず見てほしいのは
・「零の箱式」から「タカシと父さん」から「片桐教習所」の流れ
・「日本語学校シリーズ」
・「読書対決シリーズ」
・「怪傑ギリジン」

絶対ツボにはまる。

彼らの可笑しさはすごく表現しにくい。
普通なら芸人はおっちゃんにも分かりやすいネタを遣る。なぜ分かりやすいかと言うと型があるから。型があると何処で笑うのか、知らない芸人でも大丈夫。
ラーメンズは、とりあえず笑わせるツボがいくつかあるのだが、型が無い。お客はいずれかのツボで彼らに興味を持ち、さらに深く入っていく。そこにまたツボがある。
奥行きがあるというか立体感があるんです。

初期の頃のライブで「箱」という言葉が良く使われているのにも理由がある。「箱」はドイツ語で「rahmen(ラーメン)」と書くらしい。
それに[s]をつけて「Rahmens」となったそうだ。
後付なのか分からないけど、なかなかしっくり来る説明である。
立体感があるライブって言葉で説明するのがなかなか難しいので是非一度見てほしい。

なお、売れなかったからなのか、出演が嫌なのか最近テレビでの露出は全く無いと言ってよいくらい。

作品、プロフィールは支那竹銀座(ファンページ)参照


第1回公演『箱式』     
第2回公演『箱式第二集』     
第3回公演『箱よさらば。』
第4回公演『完全立方体~Perfect Cube~』     
第5回公演『home』     
第6回公演『FLAT』
第7回公演『news』     
第8回公演『椿』     
第9回公演『鯨』     
特別公演『零の箱式~ヨリヌキ初期作品集~』
第10回公演『雀』
第11回公演『Tour cherry blossom front 345』     
第12回公演『ATOM』
第13回公演『CLASSIC』    
第14回公演『Study』
第15回公演『アリス』

投稿者 tokito : 16:34 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月04日

10000という数

一万円ってすぐ無くなっちゃいますよね。
1000円札10枚だもの。
でも1円っていう単位にバラすと、1万って結構でかいのです。

先日会社のパソコンで過去に受信したメールの数を数えてみました。
2004年の一年間で約12000件
もちろんスパム除いてです。
一日平均32通です。
ひとつひとつ目を通しているので、年間これだけ読むのかあと思ったわけです。
しかし10000を365で割ると27回。
結構簡単に1万回を超えることが出来るんですね。

たとえばタバコ。
ヘビースモーカーなら一日27本で年間一万超え出来ますよ。

それからちょっとロマンチックに
一日恋人に「愛してる」を27回言うと年1万回。
※睡眠時間を8時間とすると35分に1回か、朝、昼、晩に9回ずつ言えば大丈夫です。

そんなことを考えたときに
今度は100000000って数について思いをめぐらせる。
一億を365で割ると273972
一日273972って数字は結構大変だ。

一文字と考えると、一日400字詰めの原稿用紙で684枚の小説を書き上げれば。。。
絶対無理・・・。一日20万文字はきついな。
ふぅ・・・

あ、そうだ、呼吸はどうだ?
一分間に大体25回として24時間で36000。
年間1314万・・だめだ ぜんぜん足りない。

というか一億円プレーヤーは日給27万3千円なのか。
いや実働月21日、年間出勤252日と考えると日給39万6800円。すごい。すごすぎる。実働8時間として時給約5万、一分あたり826円。

ちなみにブログを毎日1エントリーずつ書いていくと27年後に10000エントリー達成です。
みなさん頑張ってください。

投稿者 tokito : 17:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月20日

チョビ先輩

高校時代私は先輩から「チョビ」というニックネームをつけられた。
「チョビ」とはちょび髭はやしてた訳ではない。
佐々木倫子の「動物のお医者さん」という作品を知っている方ならお分かりだろうが、
その話の中に登場する妙に人間臭いシベリアンハスキーの名前である。
そのチョビに私が似ているというのである。
当時、私は応援団に在籍しており、この先輩のおかげでまともに名前を呼んでもらえなくなった。
ある先輩は街中で私を見るなり「おーいチョビイー!」と大声で叫び、
ある先輩は「おいチョビ、チョビチョビやっとるか」と意味不明のことを聞かれ、
私の耳には「チョビ」という言葉がまとわりつくようになった。
あっちで「チョビ」こっちで「チョビ」にっちもさっちも「チョビ」である。
こんだけ「チョビ」と書かれると読んでるあなたもうっとうしくなると思う。
気に入らないニックネームだったが、自分が三年になり先輩達が出て行けば、
縁は切れると開き直っていた。
三年に上がり、私は応援団の団長になり、後輩が何人か入ってきた。
私の高校の応援団は常設ではなく、単に体育祭の応援合戦だけのために体育祭の二ヶ月ほど前に開設されるものだから、団長といってもたいしたカリスマ性も無い。
私も例に漏れず全く迫力が無く、意識的に厳しくしてもどうしても後輩に友達感覚でせっしてしまうのだ。消えると思っていた「チョビ」というニックネームも、生意気なOという二年の後輩の一言で復活してしまった。
「先輩、やっぱ団長よりもチョビ先輩って呼んだ方がしっくりくるんですけど。」
私はなんとかあきらめさせようとしたが、小さいことに気を取られていては器の小さい人間と思われたらいかんと感じ、
「勝手にしろ!」
と答えてしまったのだ。
結局幾日も立たないうちに、後輩からチョビさん、チョビ先輩と呼ばれるようになった。

こうして、応援団長としては全くふさわしくないニックネームに不満を抱きつつも、本番の体育祭が徐々に近づいてきた。
体育祭には「応援合戦」というプログラムがあり、白組赤組が演舞と呼ばれる空手の型のようなものを太鼓に合わせて披露する。
いかに力強くそして呼吸をあわせる事が出来るかが勝負のカギになるのだ。
全員の動作がぴったり合うと、ものすごく美しいのだがひとりでも動きがずれるとすべて台無しになるのであって、ましてや男女合わせて30人以上もいる団員をまとめあげるのは至難の業であった。
さらに、私の頭を悩ませたのは、学校創立以来白組の応援合戦の成績はニ勝十三敗、しかもこの十年一度も勝っていないという情けない事実であった。
「今年こそ勝ってくれ。チョビならやってくれる。頑張れや」
たまに様子を観に母校へやってくる白組応援団OBは私にプレッシャーを与えるのである。
しかし団員も私も必死に練習をするがなかなか思うように行かない。
無情にも本番の日は刻々と近づき、私は受験勉強そっちのけで朝から晩まで練習を行った。

本番当日、私たち応援団は朝早く登校し、短ランやボンタン(改造した学生服のこと)を着込み、整髪料で頭をツンツンに固め、ハチマキを締め、たすきをかけた。女の子はこの日のために作った手製の衣装を着て、両手にボンボンをもった。
グラウンドに出ると早くも保護者その他大勢の方が敷き物を引いてずらりと座っている。(私の高校の体育祭は何故か父兄に人気があった)
対面にはライバル赤組の連中がやはり頭をツンツンにたててこちらを睨んでいる。
チョビ団長を筆頭とする白組応援団は赤組の鋭い視線にたじたじになった。
私は団長としての最初の仕事である選手宣誓をとどこおりなく済ませた後、本番へ向けての意気を高めようと団員を集めた。
「いいか、おまえら。よう聞け。わしら、この日のために練習してきたんじゃ。最後まで気い抜かずやれや。ええか」
(誠に偉そうである、しかし団員は素直なもので)
「おすっ(団員男子)」
「はいっ(同じく女子)」
気持ちよく答える。
「それと、お前ら今日までわしの事チョビ先輩なんて言いおったろう。じゃけどのう、そんな甘ったるい気持ちは捨てて、本気で行け、ええか」
「おすっ」
「はいっ」
「声がこまい。もういちどっ」
「おすっ」
「はいっ」
よくもここまで、真剣になれたものだ。
たかが、体育祭で、それだけのことなのに随分と情熱を燃やしたものだと今から考えると少し照れくさい気分になる。しかし応援団というものは体育祭の華であって、なんとなく自分達が主役のような、若さゆえの強い思い込みがあり、各人それぞれが自分のかっこよさ、美しさに酔っていたのかもしれない。

九月の終わりにしては暑かったのを覚えている。
風も強くて、乾燥したグランドからもうもうと砂埃が舞い上がっていた。
「いよいよ、赤白対抗応援合戦でございます。まずは白組からです」
アナウンスが流れると、中だるみしてけだるそうにしていた観客は沸きかえり、白組応援団は自分達のためだけに用意された無人のグランドへ駆け出した。
「あいっさあつ」
陣形が整うと、私はこう叫び観客に向かって低い姿勢をとる。
「おーす」
と、私。
「おーす(団員男子)」
「よろしくおねがいします(同じく女子)」
と、団員。
「いぃよおぉおぉおおっし」
と、私。
「おーす」
「よろしくおねがいします」
どん(太鼓)
どどどどどん(同じく太鼓)
かくして、応援合戦は幕を開けた。
持ち時間は三十分ほどで、シュプレヒコール、三三七拍子、ニニ四拍子、荒拍子、と次々演舞をこなしていった。
思いのほか動きが整っていたらしく、観客の反応は上々で、最後に私が編み出したチョビオリジナルの「白虎」という型が大いに受けた。
演舞を終え退場門へと走り抜ける白組応援団は、みな一様に確かな手応えを感じていた。
間髪を入れず赤組の演舞が始まった。
演舞は赤と白では全くカラーが違い、コンパクトかつ丁寧な白に対し赤は激しくスピードがあった。私たちは固唾をのんでライバルの動きを見ていたが、やはり動きが激しい方が見栄えがする。若干動きが揃わないところが見えたが、審査員が判断をどこに置くかが問題であり、勝負の行方は全く分からなかった。
女の子の団員の中には(納得行く踊りが出来なかったことを悔やんだのかどうかわからないが)判定も出ないうちから泣き出してしまうのもいた。
男どもも、不安そうな顔をして無言で判定が出るのを待っている。
私はといえば、強烈な虚脱感に襲われぼけっと突っ立っていたと思う。
そして、程なく判定が下された。
「赤組の勝ち」
である。
赤組応援団は歓喜のおたけびをあげ、我が白組は肩を落とし、その場へ座り込んだ。
一生懸命やった者ほど落ち込みは激しいらしく、一番張り切っていた女の子などは世も末かと思われるほど顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
ちんたらちんたらやっていた野郎どももよほどくやしいのか、目に涙をためて、唇を噛み必死で鳴咽をこらえていた。そんな中で一番平静だったのは私だったかもしれない。
(全力を出してやったんだからいいじゃないか。勝負は時の運なのだ。そんなに悔しがらなくても終わった事はどうにもならないではないか)
そんな気持ちでその場に崩れ落ちた皆の肩を叩いてまわった。
しかし、全然言う事聞かず、応援団を軽い気持ちでやっているのではと思っていた後輩達が、あまりに悔しそうな顔をしているのを見て、彼らが今日の日にかけたものが並々ならぬものであったことに私はようやく気づいた。
そして、醒めている自分がだんだん情けなく思えてきた。
(結局、私は本気を出してなかったのだ。後輩にチョビと呼ばれたくらいでむきになってるような小さい人間なのだ。負けたのは運ではなくこんな男が団長なぞやっていたからだ)
そんなふうに考えると急に熱いものが込上げてくる。
「おまえら、もう泣くな。ようやった。わしの力が足りんかった。すまん」
こんなくさい台詞今言ったら大笑いである。高校野球の世界である。スポ根である。
しかし、そのときは、素直に口から出た後輩への謝意であった。
私が弱気を吐いたものだから、後輩の鳴咽は更に増し、カエルの合唱のようにさらに激しくなった。
その時、じっと唇をかんで座りこんでいた生意気な後輩Oがすっくと立ち上がるなり叫んだ。
「チョビ先輩っっ」
Oの目は真っ赤だった。
Oはそう叫んでからこう言った。
「チョビ先輩、ありがとうございましたあああ」
わたしは、突然のOの行動に一瞬面くらった。
次の瞬間三十人の後輩はまるで誰かが号令をかけたかのように、一斉に私の方へ身体を向け、「ありがとうございましたっ」
と頭を下げた。
この時ばかりは、私の強情っぱりの涙腺も開きっぱなしになり、涙がとうとうと流れた。
それまでの人生でもっとも感動した瞬間である。

今でも何かつらいことがあると楽しかった高校時代のことを思い出す。
これは、私の弱さゆえのフィードバック機能かもしれない。
そこには、様々な思い出がしまってあり、そのいくつかの引き出しの中から応援団の記憶を引っ張り出す時、Oが言った言葉が脳裏に浮かびあがる。
「チョビ先輩、ありがとうございましたあああ」
あれほど嫌がっていた「チョビ」という呼び名が、今の私にはとても心地よい響きをともなってよみがえる。
今でこそ後輩達とは連絡を取っていないが、私の部屋には体育祭終了後、誰もいない校庭で団員に囲まれてにやけている私が映った写真が飾られている。
フレームの中のたくさんの顔はどれも晴れやかな表情だ。
いつまでも。

これは店主が1998年4月に書いたものです

投稿者 tokito : 00:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月15日

石ころ

僕は近頃頭がどうかしているのか、こんなことを思ってしまうのだ。
道を歩いていてふと自分の爪先に石ころが当たって蹴飛ばしてしまった。
蹴飛ばされた石ころはころころ転がって何mか先で止まる。
(この石はどこから来たんだろう?)
全く子どものような疑問を抱いてしまうのだ。

まず、僕はこう考えた。
(この石はアスファルトの舗装用に使われた石だな)
と、想像してみた。脳裏に舗装する現場が浮かんでくる。恐らく道路の状態か
らいって相当昔だろう。高度経済成長時代、インフラが急激に整備される中で
この道路は舗装されたに違いない。出稼ぎで東北から出てきたお父さんが、顔
を真っ赤にして、首からタオルをぶら下げ、汗で黄ばんだメリヤスのシャツを
びっしょり濡らしながら砕石をこの場所にぶちまけたのだろう。
そのお父さんは、異臭のする合材の匂いにむせ返りながらも、故郷で待つ家
族のため懸命に働いていたのかもしれない。そのお父さんのごつごつの手によ
ってこの石ころはこの場所にやってきたのだろうか。

僕はぼけっとそんなことを想像しつつも、その石ころを蹴飛ばしながら歩い
ていく。
(では、この石ころの次なる運命はどうなるのだろう?)
果たして私の様なボケっとした歩行者にこれから何度蹴飛ばされることだろ
う。その石はあちらこちらへ蹴飛ばされて摩耗していくのだろうか。そのうち
側溝の穴にぽろりと落っこちて、汚いどぶの中に閉じ込められてしまうのだろ
うか?
(でも、大雨が降ったらきっと凄い勢いで大きな川に流されるだろうな)
小さな石ころは雨で勢いを増した濁流によって押し流されて、晴れて一級河
川に流れ込むかもしれない。そして、今までよりかはよほどきれいな水の中を
水流に押し流され、比較的早く海へたどり着くことだろう。

そこで僕は再び考え込む。
(もし、石にとって海へ流れ込むのが幸せなことだったら、今自分が側溝へそ
っと落としてやるのがいいのではないだろうか?いや、このままにしないでど
こかの川へ投げ込んでやるのが良いのかもしれない。)
僕は少しエゴイスティックな感情に襲われた。
石ころは本当はこれからどうすれば幸せになるのかを考えていなかった。
ひょっとしたらこの路上で蹴飛ばされ、車のタイヤにはじかれ、時には子ど
もの遊び道具になりながら少しずつ少しずつ摩耗して、やがて粉々になってし
まうことが幸せなのかもしれないのだ。

(この石は、僕が想像を膨らませて考えていることをどういう風におもうだろ
う?)
ついに僕は石ころに感情移入してしまった。きっと石ころにとってこの事実
はおおいに迷惑だろう。彼は自分で動くことはできない。全てを流れにまかし
ているのだ。つまらない私の想像によって運命が有らぬ方向に転がり出してし
まうことは、彼にとって必ずや不本意なことであるはずだ。

そんなふうに思いながらも、僕はその石ころを蹴っては追いかけ蹴っては追
いかけ歩く。そして何度目かのキックをしたときに、石ころはころころと思わ
ぬはねかたをして、どこかへ行ってしまった。僕は立ち止まってその石ころを
探したがどこに行ったのか、結局見失ってしまった。
僕は溜め息まじりに心の中でこう呟く。
(ああ、やっぱしおせっかいだったかな。嫌われてしまったな)
僕は少し寂しい気分になりながら、ふたたび何も無かったかのように歩き出
した。
そしてちょっと歩いてからまた立ち止まり後ろを振り返って考えた。
(やっぱりこれでよかったんだ)
ほんの数分の間の出来事だったが、なにか僕はすごく大切なものを一瞬垣間
見た気がした。でもその大切なものはあの石ころのように、どこかへ見えなく
なってしまったけどね。

石ころに思ったこと。

(注)これは1999年にメルマガに書いたものです

投稿者 tokito : 12:36 | コメント (0) | トラックバック